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南界堂通信〈冬号|第25号〉

エイズ対策のキーパーソンたち

“研究室でHIVと向き合うことから社会の中でHIVと向き合う/白阪琢磨さん(日本エイズ学会会長)

もうすぐ大阪で開催される日本エイズ学会の学会長を
務めておられる白阪琢磨先生に突撃インタビュー!

MASH大阪(以下M)先生は日本のエイズ対策という分野でブロック拠点病院(国立大阪医療センター)のエイズ診療を率いておられますし、公益財団法人エイズ予防財団の理事長、もうすぐ大阪で開催される第32回日本エイズ学会の学会長など要職を兼務されていますが、先生がHIV診療にかかわるようになったきっかけはどこにあったのでしょうか?

白阪:昔の話ですが、中学時代、盲腸(虫垂炎)を誤診されたことがあって医者には不信感があって(笑)、数学者になるのが夢でした。でも親からは「医学部に行け。」話合いの末、一回だけトライして、駄目だったら数学の道を、と約束した。でも、受かり、医学の道を歩むことになりました。

M:はじめからHIV診療に?

白阪:いえ、肺がんの専門医を目指し、大学での研究テーマは免疫療法だった。80年代の後半、米国に留学に行く際、選択肢が二つあったんですね。肺がん研究を続けるか、それとも当時「大変な病気」というイメージだったエイズに取り組むか。決め手になったのは満屋裕明先生。先生は私の恩師の高弟にあたり、当時米国国立衛生研究所のがん研究所のチーフで、世界初のHIV治療薬を開発するなど、臨床研究で輝かしい成果をあげておられた。そんな人のもとで研究したいという気持ちがまさったんですね。

M:満屋先生をしたって米国に渡られた?

白阪:そう。今でもはっきり覚えています。ダラス空港で出迎えてくれた先生にその足で研究所に連れていかれ、夜10時までみっちり研究指導を受けました。米国での研究環境の厳しさ、成果を出すことへの要求の高さを実感した瞬間でした。結局米国には5年半滞在し、満屋先生のもとで基礎的臨床研究、特に抗HIV薬の開発と薬剤耐性の研究に打ち込みました。

M:帰国されてすぐHIV診療に携わることに?

白阪:いえ、米国ではずっと研究室にいたので、HIVをめぐる患者・感染者の方たちの状況、特に日本での社会の状況については何もわかっていませんでしたから、いきなりHIV診療に関わるには不安もあり、まず結核診療に携わりました。その後、かつての同級生だった松浦先生(南界堂通信第17号のこのコーナーに登場)に話を聞き、紹介してもらったNGO(HIVと人権・情報センター)のスタッフの方たちとも知り合いました。カウンセラーや看護師の方たちでしたが、皆さんフツーにHIVと向き合っておられて、「あ、これでいいんだ」と思ったのを今でも覚えています。その後は、松浦先生らとともにHIV医療に携わる者たちのネットワーク・関西臨床カンファレンスを立ち上げ、そこで得た知見をもとにHIV医療の改善案を厚生省(当時)に提示し、迅速な対応を引き出すことができました。その後、近畿ブロックの拠点病院である国立大阪医療センターのHIV担当医長となりHIV/AIDS先端医療開発センター長となり、今に至ります。

M:先生の目からみた、HIV診療の現状は?

白阪:薬剤の進歩はめざましく、一日一錠の服薬で済むようになりました。飲み忘れから生じる薬剤耐性を持つウイルスもほとんど見つかっていません。さらに、最近では、毎日薬を飲まなければならないシンドさを緩和するために注射薬が開発中で、承認も近いと思います。承認されると、二箇月に一回、通院するだけで済むことになります。一方、社会が変わらなければ変わらないこともあります。HIVを持っていることの言いづらさが一つ、もう一つは長期療養施設を見つけるのが難しい点です。

M:12月初旬に大阪で開かれるエイズ学会を率いる立場でいらっしゃいますが……

白阪:12月2日〜4日の学術集会(国際会議場)にさきがけて、1日・2日に中之島の中央公会堂で市民に向けた啓発イベントを開催します。社会全体がウイルスの一つとしてフツーに向き合えるよう、市民の方々に訴えていくつもりです。読者の皆さんも是非ご参加ください。

M:貴重なお話をありがとうございました。

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