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南界堂通信〈冬号|第25号〉

知られざる偉人伝

ヴァルター・シュピース

バリ島芸能の大恩人 その1

ヴァルター・シュピース
(画家/1895-1942)

ヴァルター・シュピース(画家/1895-1942)

バリ島の魅力といえばビーチ、ホテル、自然、バリヒンズーの寺院、絵画など枚挙のいとまがないけれど、何に一番魅かれるかと問われたら、ダイナミックなガムランの調べとともに演じられるバリ舞踊だと答えたい。バリ舞踊と一口にいっても、ガボールやレゴンダンスなど宮廷舞踊の流れを汲むもの、クビヤール・トロンポンと呼ばれる、伝説の舞踊家マリオが始めた創作舞踊(歌舞伎の女形の芸を彷彿とさせるものだ)などさまざまだが、バリ島に行ったことがない人にもお馴染みなのがケチャダンスだろう。数十人の、上半身裸の男たちが二手に分かれ、複雑なリズムを口で刻みながらサルの大群を演じるという趣向の、ダイナミックかつ(見ようによっては)ホモエロティックな出し物だが、このダンスの歴史をたどっていくと、ひとりのドイツ人芸術家に行き当たる。

ケチャダンス

ヴァルター・シュピースは1895年、ロシア帝国に駐在していたドイツの大商人レオン・シュピースの息子としてモスクワに生まれた。何不自由ない環境のもとで音楽や絵画の才能を育んでいったヴァルター少年だが、第一次世界大戦が勃発してロシアとドイツが敵国同士となると収容所送りとなり、遠いウラル山脈の地にある収容所で数年間過ごす。しかしこの時に経験した中央アジア遊牧民との交流、そして彼らの、西洋流の芸術に浸食されていない芸能に心を奪われる。このとき彼の心のなかに培われた西洋世界への違和感と、非西洋世界の芸能や社会への強い憧れは終生変わることはなかった。

その後父の故国ドイツに移り、映画界の巨匠であったムルナウの知己を得て、興隆期にあった映画界にも足を踏み入れたヴァルターだったが、西洋世界への拒否感はますますひどくなっていき、ある程度貯えができると、公私ともにパトロンであったムルナウを説得し、行先もはっきり定めることなくインドネシア航路の客船に乗り込む。1923年八月、かれが28歳のときであった。

ケチャダンス

知人をたどってジャワ島の古都ジョクジャカルタに腰を落ち着けたヴァルターだったが、滞在中に幾度か訪れたバリ島に強く魅かれ、移住を決意、ウブドゥの新興王家スカワティ家の知遇を得て、チャンプアン渓谷にある同家の領地を借り受け、そこに居を構える。1927年、彼が32歳のときであった。

おりしもオランダ総督府はそれまでの強権的なバリ島統治政策を見直し、かつて島の各地を統治していた八つの王家を復権させ、彼らにある程度の自治権を認める政策へと舵を切りつつあった。こうした環境のもと、シュピースはバリ島の自然、伝統的な絵画、ガムラン音楽、舞踊などに心底魅了されながら精力的に全島を歩き、知遇を広げ、対話を深め、瞬く間に全島の文化をその最深部まで知る〝バリ島文化人〞となっていく。チャンプアン渓谷の彼の家はバリ島に魅せられた世界中の著名人、芸術家、観光客のたまり場と化していくのだ。

そのなかにドイツの若手の映画監督フォン・プレッセンがいた。バリ島を舞台にした映画『悪魔の島』を構想していた彼はムルナウを通じてシュピースに現地での調整役を依頼、これに応えてシュピースの出したアイデアがケチャダンスだった。シュピースはこう考えた―バリ島の最も秘儀的な芸能にサンギァン・ドゥダリがある。これは男性コーラスが5つのリズムを紡ぎだすことで独特のグルーヴが生じ、グルーヴを通じて神が少女二人に憑依、二人が目を閉じたまま(眠った状態のまま)まったく同じ振りを踊るというものだ。しかしこの踊りはバリ・ヒンズーの最奥部に位置するものであり、観光客の目から守られなければならない。ならば、このうちの男性コーラスの部分だけを取り出し、これにヒンズーの神話ラーマーヤナの登場人物の役(猿の王ハヌマンの手下の猿たち)を与え、観光客に分かりやすいパッケージに仕立て上げて映画に登場してもらおう……(つづく)

鬼塚哲郎

数年後の定年退職を待ち焦がれる大学教員。
シュピースはサンギアン・ドゥダリも写真に収めていて、彼がバリ島のコミュニティから全幅の信頼を勝ち得ていたことがうかがえます。考えてみれば、20世紀の初めには小さなコミュニティにすぎなかったウブドゥがバリ島の文化首都的な位置を獲得したのも、ひとえにシュピースとスカワティ家の協働によるものだったのでしょう。しかしその協働作業は、ヨーロッパのホモフォビアの文化と制度によって無残にも断ち切られてしまう…この話は次号でお届けします。

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