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南界堂通信〈春号|第46号〉

知られざる偉人伝

〈S/N〉の誕生
~古橋悌二の遺したものその2

古橋 悌二(1960‐1995)

LGBTQアートの金字塔と呼ばれるダムタイプの〈S/N〉。
古橋の同級生であり、ダムタイプのメンバーでもあった
ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんに、古橋との交友、現代アートと市民活動・
クラブカルチャーとの接点について語っていただきました。

古橋 悌二
古橋 悌二(1960‐1995)

私が京都市立芸術大学に入学したのは1981年、古橋悌二と同期です。私は学生サークル〈劇団 座☆カルマ〉に入部、そこに悌二がいました。当時の彼の印象は「いつも誰かの後ろに隠れている、ブリティッシュ系ニューウェーブ好きの、小鳥のような少年」(笑)。ミーティングで皆がアイデアを出し合う際、悌二は当時すでに学外でバンドを組んでいた山中透さんと作った楽曲をカセットテープに入れて皆に渡したりしていました。

彼はまた、当時まだ珍しかったビデオカメラ(たぶんお兄さんの持ち物)を使って「音楽を映像でどう表現するか」に挑戦していました。ビデオをアートとして扱う人はまだまだ少なかった。84年に劇団は〈ダムタイプ〉と改名。85年に悌二が山中透さんと作った〈セブン・カンバセーション・スタイルズ〉というビデオ作品は東京国際ビデオビエンナーレで奨励賞を獲得、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で展示され、悌二は初渡米します。劇団の先輩のMさんからコクトーやメイプルソープなどゲイ文化の洗礼を受けていた悌二は、ニューヨークでさらに大きな刺激を受け、その後何度も訪れます。

「ORG」
「ORG」
左から山中透、高田恵美子、古橋悌二によるロックバンド。
1980-81年頃。

その頃私は結婚して劇団を離れていましたが、6年後に離婚して、自分が一番やりたいのはやはり「ものを作ること」だと気づき、東京のとある劇団に入る計画を報告するため91年秋にダムタイプのオフィスに行きました。そこで悌二に〈S/N〉の前作である〈pH〉の大阪での公演に誘われます。それを観て私は大きな衝撃を受けました。私がこれまでに観たどんな作品とも違う、本当に尊敬し驚嘆すべき作品だったからです。それで私は「やっぱりこの人たちだ」と決めてダムタイプに出戻ります。悌二と山中透さんがシモーヌ深雪さんと89年に始めたクラブイベント〈DIAMONDS ARE FOREVER〉に誘われたのもこの頃です。

クラブなんて初体験の元主婦としては「とりあえず網タイツと長い手袋かな」という装いで出かけたところ、悌二から「それは『ブブ』って感じ!パリの娼婦みたい! 」と絶賛され、私は娼婦や移民たちが住む街区の教会にちなんで〈ブブ・ド・ラ・マドレーヌ〉をフルネームとしました。

そんなある日、悌二から「手紙を書いたから文面をチェックして」と頼まれました。「古橋悌二の新しい人生―HIV感染発表を祝って」と題されたその手紙は約30人の友人達に届けられ、すでにインスタレーションなどで展開を始めていた〈S/N〉プロジェクトは大きく変化していきます。その過程は、ダムタイプのメンバーを含む友人達それぞれが悌二のビジョンを自分のリアリティとして獲得する闘いでした。

〈S/N〉の制作と並行して、ダムタイプの小山田徹さんを中心とする〈アートスケープ構想〉―アーティストやNGO関係者が泊りがけで活動できる場をつくる―が動き出しました。そこでは、エイズポスターの収集・分析・展示、女性のための手帳の開発・出版、エイズをテーマにしたクラブパーティの定期開催、カフェの運営など、様々な活動が生まれました。そこでダムタイプは医療者・行政官・NGOワーカー・牧師・次世代のアーティストらと出会うことになります。新自由主義に向かう世界への批判を掲げた〈pH〉と違い、セクシュアリティとエイズという「血の通った」課題に直面した〈S/N〉は、こうした人々との出会いによって練り上げられていきました。

「pH」(1990)
ミス・グロリアス(古橋悌二)。
「バーバレラボール」にて。
クラブ「ジャンクス」(神戸)、1992年3月。

しかし悌二は、政治的関心や市民社会の声を作品に反映させることにとどまらず、クラブカルチャーによってハイ・アートに変容を加えるチャンスを狙っていました。ニューヨークでドラァグクイーンとしての自分を育ててくれた先輩クイーンたちへのリスペクトの表明ですね。それは〈S/N〉の彼のメイクシーンからの『PEOPLE』、そしてラストの『アマポーラ』のシーンに結実したのだと思います。

〈S/N〉の初演から1年半後、95年の秋のブラジル公演に向かう前日、悌二は主治医から「CD4がゼロです」と言われます。「悌二、今は休んだほうがええんとちゃう?」「ええよね。」というやりとりのあと、彼は病院の待合室で自分が不在の舞台の段取りを細かく口頭で私に伝えました。私はそのメモを携えて、翌日、マンションに悌二を残し、鬼塚さんを含めた友人たちに看病を委ねてブラジルに向かいます。それが彼との最後になりました。

ブブ・ド・ラ・マドレーヌ
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ。自宅にて。2022年。
プロフィールブブ・ド・ラ・マドレーヌ

1991年よりダムタイプで活動し「S/N」に出演。その後、ソロまたは国内外のアーティストと共同で、立体、絵画、映像、パフォーマンスなどの制作や文章の執筆を行う。同時にHIV/エイズと共に生きる人々やセックスワーカー、セクシュアルマイノリティや女性の健康や人権についての市民運動に携わる。共著に『セックスワーク・スタディーズ』(日本評論社、2018年)など。
インスタレーション『人魚の領土-旗と内臓』(2022)を国立国際美術館コレクション展にて2/6より、『花粉と種子』(2024)をオオタファインアーツ7chomeにて2/17より展示。

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