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News Paper

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南界堂通信 秋号|第48号

知られざる偉人伝

〈S/N〉の誕生~
古橋悌二の遺したものその4
15年間の協働作業

古橋 悌二
(1960-1995)

LGBTQアートの金字塔と呼ばれるダムタイプの〈S/N〉。
ダムタイプの初期作品から〈S/N〉までの音楽を古橋悌二と二人三脚で担ってきた山中透さんに古橋との15年間の協働と交流を語っていただきました。

 はじめまして、山中透と申します。「ララ」と呼ばれています。僕が古橋悌二と出会ったのは19の時、悌二が浪人生、僕が関西大学一年生で、学園祭でバンドのライブをやってるときに友人が「おもろい奴紹介するワ」てなノリで悌二を連れてきた。しかし2人ともシャイで会話がはずまない。2人ともナイーブな少年で、ある意味世間をナメてた。自分たちが創るものには根拠のない自信みたいなものがありましたね。セクシュアリティの面では「ゲイとかノンケとか、既存のカテゴリーに押し込められてたまるか!」てな気持ちが2人ともありました。既存の境界を越えたいという気持ちが強かった。一緒にバンドを始め、悌二が京都市立芸術大学に入学して、後のダムタイプにつながる活動を始めると、当然僕も参加することになります。

 作曲は僕の領分、舞台に落とし込むのが悌二の領分、といえるかな。実際、作曲された楽曲を場面場面に落とし込む際の、彼のアレンジャーとしての手つきには天才的なものがありました。自分たちの創った曲が悌二のアレンジによって舞台作品に変貌していくのを体感することほどスリリングでやりがいを感じたことはありません。

 80年代の後半、転機が訪れます。悌二に米国人の恋人ができ、急速にゲイとしての自覚を強めていきます。同じ頃、二人が制作したビデオ作品〈7 conversation styles〉がニューヨークの近代美術館に収蔵されることになり、それをきっかけに悌二はニューヨークに渡ります。その後の数年間、悌二は京都とニューヨークを行ったり来たりの生活。そんな時期にニューヨークを訪れた僕はハウスミュージックの洗礼をうけることになります。ディスコ調の曲が主流の時代に、ゲイクラブでは圧倒的に新しい、実験的なハウスがかかっていて、魅了されました。これが後の〈pH〉や〈S/N〉の音楽に決定的な影響を及ぼすことになります。それまで、僕らが創ってきた音楽は、現代音楽に近いミニマルミュージックにニューウェーブやプログレ的要素を加味し、さらにさまざまなノイズを組み合わせたものでした。ハウスの洗礼を受けた後、ミニマルミュージックを土台に据えることは変わらないけれど、自分たちでゼロから作曲するのではなく、さまざまな音楽を引用するDJスタイルを取り入れることになります。クラブカルチャーを現代アートに取り込んだと言ってもよいかな。このやり方だと、あとで著作権のことで苦労するのですが、「そもそも著作権って何やねん?」という問いだって生まれます。

 1992年、悌二がHIV陽性だってことを公表して〈S/N〉の制作が始まるわけですが、作品のコンセプトを詰めていく作業の場から、僕はなんと悌二自身の手で排除されてしまう。彼の言い分は「ノンケでもゲイでもないララみたいな人間がおると話がややこしくなるから」。彼はダムタイプの内部でノンケ対ゲイの議論を巻き起こし、その議論を〈S/N〉のコンテンツにしたかったのだろうと今なら考えますが、当時の僕はすっかりフテクサレて、「ギター弾きの役でももらえたらエエわ!」なんて思ってました。確かに僕自身、悌二がゲイの自覚を強めるのと同時期に自分はノンケなんだろうなという意識が芽生えてもいたのですが、山岸凉子や大島弓子の少女漫画を愛読していたし(「ララ」と呼ばれたのはそこから)、ゲイクラブでハウスの洗礼は受けるし、難波の座ウラにあるゲイバーによく通ったし、かなりクイアな人間だった。悌二にしてみれば「扱いづらい奴」だったのでしょう。

 しかし〈S/N〉の音楽は、1994年春のアデレード初演に向けて待ったなしの状況。悌二の容態はどんどん悪くなる。〈pH〉までは、大阪の僕のスタジオに二人でこもってやれた音づくりも、リハーサルの合間を縫っての作業に取って代わる。そう、〈S/N〉の、特に後半の音楽に対して、当時の僕は強い「不全感」を抱いていた。あの、天才アレンジャーの手つきを味わうことはもうできなかったから。そして悌二をエイズで亡くしてからは、僕自身この「不全感」を長い間封印してきた。しかし50代に大病からからくも生還して、それに〈S/N〉を再上映したいという声が上がるにつれ、もう一度、悌二と僕が80年代と90年代前半にやってきたことを見つめなおしたい、録音された音をそのまま流すのではなく、悌二と一緒にやってるつもりのライブ演奏をやりたいと思うようになりました。

 悌二は、現代音楽とそれ以外のベタな音楽との幸福な結合を夢見ていました。そこにはアングラ文化からの脱却という意味合いも込められていました。そんな悌二の夢への、僕からの応答をもう少し続けたいと思っています。

ララ(ヴォーカル)と悌二(ドラム)

ララ(ヴォーカル)と悌二(ドラム)

悌二(手前)とララ(奥)何してんのかな…

山中 透

1960年大阪生まれ。作曲家、プロデューサー、DJ。Foil Records 主宰。
学生時代、京都を中心に実験音楽系のフィールドで活動し、マルチメディア・パフォーマンス・アーティスト集団「dumb type」の立ち上げに参加。創世記のメンバーとして、音楽と音響を担当。いまも続く伝説的なドラッグクイーン・イベント「Diamonds Are Forever」の主催者、DJでもあり、様々な分野の人々と積極的にコラボレーションを行っている。
https://foilrecords.com