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南界堂通信〈春号|第26号〉

知られざる偉人伝

ヴァルター・シュピース

バリ島芸能の大恩人 その2

ヴァルター・シュピース
(画家/1895-1942)

ヴァルター・シュピース(画家/1895-1942)

シュピースはバリ島の最も奥座敷に位置する舞踊サンギャン・ドゥダリから、映画向け、観光客向けのバリ島芸能パッケージ〈ケチャダンス〉をつくりあげる。映画『悪魔の島』のヒットに伴い、ケチャダンスは観光の目玉商品として定着していくが、シュピースにとって、それはあくまでもコミュニティの文化を守るためのものであり、上演の収入は個人ではなく、寺院を中心とするコミュニティに還元されなければならないと考えていた。シュピースが構築したこうした仕組みは百年近く経った現在でも変わっていない。

しかしバリ島文化とシュピースの蜜月時代は突然終わりをつげる。シュピースはバリ島の青年たちと師弟でもあり恋人同士でもある関係を築いていたし、そのことはバリ人のあいだでは決して問題になることはなかった。しかしヨーロッパではナチスの台頭と歩調を合わせるように同性愛者への弾圧が吹き荒れはじめ(フランス以外のほとんどの国で同性愛行為は違法であった)、オランダ総督府の役人にも次第にシュピースとバリ人男性たちとの関係を白い目で見るものが出てくる。

シュピースの良き理解者であった総督が去り、新任者が着任した直後の1940年、オランダ総督府は同性愛の罪でシュピースを逮捕。ヨーロッパの事情にうといバリ人たちは当惑し、抗議の声をあげる。このときシュピースは彼自身のガムランオーケストラを持っていたが、オーケストラの面々はシュピースが収監された建物の壁の外側に陣取ってガムランの音色でシュピースを慰めると同時に、自分たちがシュピースとともにあることを宣言する。その後シュピースはジャワ島の監獄に八か月収監されたのち釈放され、バリ島に戻るが、悲劇はそこで終わらない。

画集

二年後、ナチス・ドイツがオランダを侵略すると、オランダとドイツは敵国同士となり、シュピースは捕虜収容所送りとなる。いったんスマトラの収容所に移された後、迫りくる日本軍から逃げるように、数百人のドイツ人捕虜ともにセイロン島に護送されることになる。ところが、数百人のドイツ人捕虜を乗せたオランダ船〈ファン・イフ号〉がパダン港を離れてまもなく、船はあろうことか日本軍の爆撃にあって撃沈され、シュピースはインド洋の藻屑となってその生涯を終えるのだ。

彼の一つ目の悲劇は、バリ島の地が、彼があれほど忌み嫌ったヨーロッパの法の力が及ぶ土地、つまりは植民地であったことに端を発している。しかしシュピースがバリ島に定住できたのも、またそこで幸せで充実した生活を十数年のあいだ送ることができたのもそこがヨーロッパの植民地だったからこそだろう。

二つ目の悲劇は、戦争のそれだ。〈ファン・イフ号〉を攻撃した日本の帝国海軍は、オランダ船に同盟国ドイツの捕虜が数百人も乗っているとは知る由もなかったろう。つまるところ、シュピースはヨーロッパでのナチスの侵略とアジアでの日本の帝国主義的拡張から逃れることはできなかったわけだ。

バリ島の、とりわけウブドゥの絵画、音楽、芸能に及ぼしたシュピースの影響は計り知れないが、彼の最大の功績は、島のコミュニティと観光客双方の利益となるようなかたちで芸能の提示方法を確立したところにあると私は思う。ウブドゥを訪れる人は、そうした伝統が今も生きていることをきっと実感することだろう。

画集
鬼塚哲郎

シュピースの残した絵は世界中に散逸し、まとまって観る機会はないけれど、オランダの収集家が編集した画集(中段の写真)と、シュピース自身がバリ舞踊を文章と写真で克明に記録した書物〈DANCE&DRAMAINBALI〉で彼の遺産を垣間見ることができます。あと特筆すべきは、作家の坂野徳隆さんがシュピースの伝記〈バリ、夢の景色ヴァルター・シュピース伝〉を2004年に出版されていて、シュピースの伝記としては最良のもの。やはり彼は死後も多くの人たちに愛されているのですね。これらの本はすべてdistaの本棚にあります(一番下の写真)。

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