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南界堂通信〈春号|第26号〉

男朋友

花も嵐も踏み越えて―新世界の生き証人ひろ子ママに聴く―

昨年末に封切られ、マスメディアにも取り上げられて話題になった
武田倫和監督のドキュメンタリー映画 『わたしの居場所〜新世界物語〜』。
映画のおかげで一躍時の人となったひろ子ママにお話をうかがいました。

MASH大阪(以下M):出身は鹿児島とお聞きしましたが、どんな子供時代を過ごされたのですか?

ひろ子ママ:中学時代、早くも「女形(おんながた)」と呼ばれてましたね。遊び相手はもっぱら女の子。よくいじめられましたが、仲の良い女の子が助けてくれた。父親からは「チャンバラでもせいっ!」と言われましたが、男の子が好きで、友達のチンチンをさわったりしてました。「男やのになんで男が好きなんや?」と思ったこともありました。

ひろ子ママ

M:大阪に出て来られたのは?

ひろ子ママ:中学を出て集団就職で大阪に来て、大企業の下請け会社に就職。寮に入ったのですが、同室の若い男に手を出し、問題となり居づらくなって辞めてしまいました。そのときばかりは、手を出した自分のことは棚上げして「なぜこんな男に生んでくれたんだ」って母親を恨んだことも。一度だけですけど(笑)。

M:会社を辞めてからどうしたのですか?

ひろ子ママ:いろんな仕事をやりましたよ。曽根崎のトン平焼きの店で働いたことがあって、そこで覚えた技が今の店で生きていますね。西成に住んでいた知り合いの家に転がり込んでいたのですが、21歳のとき新世界のオカマバーにスカウトされたの。当時は、60年代前半、新世界では女装のオカマバーが主流で、10軒くらいあったかしら、名前も全部覚えているわ。ホモバーは2軒くらいしかなかった。

M:女装をはじめて、世界が変わりました?

ひろ子ママ:初めて化粧もして、“人生薔薇色”って思った。だって、女装すると男にもてるのよ!店のお客はノンケの男たちと女の人たち。話術もそれなりにあったからかしら、仕事はとても面白かった。そんなある夜、店を終わって帰宅する途中「ネエチャン、遊ぼ!」って、男に誘われて、お相手したら2,000円くれたの。お店の日給か1,500円、ドヤ代(ホテル代)が380円の時代よ。これはオイシイ仕事だわ、って思った。それで、立ちんぼの仕事を始めたの、ミナミのミス大阪っていうキャバレーの裏あたり。

M:時代は高度成長期ですよね......

ひろ子ママ:そう。夜の街に人がたくさん来ていた。お得意様は西成に住んでいる土方やとび職の男たち。出張帰りに盛り場に遊びに来るときが狙い目なの。だって彼らは「その日稼いだ金はその日に使う」人たちだし、そんな男たちのなかには、オカマに声を掛けられるのがうれしい人もいっぱいいたの。随分稼がせていただきました。もちろん面倒なこともあった。とび職の男二人が取り合いして喧嘩になったこともあるし、警察にもさんざんお世話になり、刑事さんにつきまとわれたことも。でも悪いことをしてる意識はなかったわ。「今日はどんな人と出会えるかしら?」って思ってた。あっ、そうそう、あのころアナルをやるときはローションなんてないから、オロナイン軟膏をあそこに塗って使ったわね。殺菌にもなるでしょ。

M:えっ、オロナイン!? ナルホドねぇ......この店(「千両」)はいつから?

ひろ子ママ:40歳を過ぎるとさすがに売れなくなってきた。鹿児島の家族と会いたいという気持ちも出てきたので、お店をやることにしたの。お好み焼きなら腕に覚えもあったし。場所はもちろんここ、新世界。それからもう34年。オカマ、ホモ、ノンケの男、女、子供......あらゆる人が来る店よ。お店をやってホントによかったと思ってます。最近がんを患ってよく入院するんだけど、お店があると励みになって、また頑張ろうって気持ちになるのよ。

M:貴重なお話、ありがとうございました。

ひろ子ママの「居場所」である千両は、ひろ子ママを慕うお客さんたちの「居場所」にもなっています。
年末には検査入院、年が明けてからは手術を伴う入院とお店を休業せざるを得ない状況が続きました。
癌と向きあいながらも、必死でみんなの「居場所」を守り続けようとするひろ子ママがいる限り、看板の灯りも輝き続けてくれるでしょう。

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