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南界堂通信〈秋号|第40号〉

知られざる偉人伝

正真正銘の“知られざる偉人”《その3》

近代日本で最初の男色史に取り組んだ在野の研究家・岩田準一。
知の巨人・南方熊楠との往復書簡に見る二人の交流に迫る!

岩田 準一(1900-1945)

岩田 準一
岩田 準一(1900-1945)

前号では、近代日本における男色研究の端緒を開いた岩田準一の孫娘・岩田準子氏が発表した小説『二青年図 乱歩と岩田準一』に光を当てました。今回は、紀州が生んだ型破りの天才学者・南方熊楠みなかたくまぐすとのあいだに交わされた数多くの書簡に注目し、そこから岩田が何を得たのかを見ていきます。

南方熊楠
南方熊楠

南方熊楠は明治維新の前年、和歌山市の富裕な商家(のちに酒造業)に生まれます。人並みはずれた集中力と記憶力を合わせ持ち、森羅万象に関心を抱き、いったん関心を抱いた対象物にはとことん没入していく態度・習慣を小さいときから養っていきます。東京大学の予備門(現在の教養学部)に入学しますが、学校という環境になじめず、落第と癲癇てんかんの発作を機に1年で退学し、故郷に帰ります。米国の大学に活路を求めますが、やはりなじめず、数か月キューバに滞在したあと、英国のロンドンに向かいます。たどり着いたのが大英博物館の図書室でした。その巨大な空間で熊楠は多種多様な文献を読み漁ります。英・仏・独・伊・スペイン語・ラテン語に加え、ロシア語、ギリシア語そして漢文。対象となる領域は生物学にとどまらず文学、哲学、歴史、民俗学、セクソロジー(性愛学)…。そして当時最も権威のある学術雑誌『ネイチャー』誌に論考「極東の星座」が掲載されると、俄然周りの目が変わってきます…。

こうして、熊楠が大英博物館の図書室で過ごした8年間は極めて実り多いものでした。しかしそのあいだに和歌山の父母は亡くなり、家督を継いだ弟は熊楠の学問に理解を示さず、仕送りの打ち切りを宣告。逆境の中で熊楠は帰国を決意、14年ぶりに故郷の土を踏むことになります。このとき彼は33歳になっていました。

紀伊田辺に落ち着いた熊楠は、熊野の那智大社に滞在した数年間を除いて、ずっとこの田辺の地で、一度も定職に就くことなく、弟からのわずかな経済的援助と理解者からの借金などで食い扶持ぶちを得ながら74歳で亡くなるまで隠花植物(粘菌)の研究に没頭します。この間、39歳で結婚し3人の子供をもうける、明治政府が打ち出した神社合祀ごうし政策に真っ向から反対する運動を展開する、日本の民俗学の父と呼ばれた柳田國男と出会い、交流する、昭和天皇に生物学を進講する、などなど様々な事件を経験しますが、その最後の10年間、彼が最も頻繁ひんぱんかつ熱心に書簡を交換したのが、三重県の鳥羽に住む岩田準一でした。

岩田準一と熊楠とのあいだの往復書簡は、昭和6年、岩田が雑誌『犯罪科学』に連載中の『本朝男色考』を熊楠が読み、これを高く評価、出版社を介して岩田に書簡を送ったときに始まります。熊楠が書いたものだけで176通、全集版でざっと320頁。両者合わせると300を超える書簡が10年間、鳥羽と紀伊田辺のあいだを行き交ったことになります。そして、これらの書簡がほぼすべて保存されているという事実は、二人の遺族が、これらの書簡を極めて大切なものであり保存の価値があると判断したことを物語っていると思われます。

さて、この膨大な量の書簡を通じて、岩田が学んだことは何だったのでしょうか。
熊楠が提供したものは何だったのでしょうか。

ひとつは、日本の古典文学の解釈です。岩田は個別の物語の具体的なテキストを引用しつつ、それをどう解釈すべきか、熊楠に尋ね、熊楠は懇切丁寧に答えます。答える際、他の日本の古典、中国の古典、ギリシア・ローマの古典を引用することも稀ではなく、俯瞰ふかん的な見地からの解釈を提供しています。
いっぽう、後半生を男色文学の研究に捧げた岩田の手元には、熊楠の知らない出版物もたくさんあり、そういう場合熊楠は「そのテキストをぜひ送ってほしい。書き写したらお返ししますから」と頼んでいます。

『南方熊楠男色談義 -岩田準一往復書簡-』(八坂書房・1991年)
『南方熊楠男色談義
-岩田準一往復書簡-』
(八坂書房・1991年)

熊楠が教授した2つ目の点は、「原点に帰れ」ということです。男色に限らず、物語には、
A.史実の記録と考えられるもの、
B.各地に伝わる伝承を活字にしたもの、
C.AとBを近代的価値観で改変したもの、
この3つがあり、とりわけCを見抜くことが大切。そのためには原点にあたることが重要だと述べています。

前々回に引用したように、江戸川乱歩は『本朝男色考』の原典主義を高く評価していましたが、その背景には熊楠の助言があったと考えられます。

3つ目の、そして最も重要な点は、男同士の関係を考える際、性愛にフォーカスした「男色」と精神的な絆とを分けて考えるべきだ、という指摘です。後者のことを熊楠は「男道」と呼んでいますし、「男道」は「男色」を含み得る、ともプラトンを引き合いに出しながら言います。

紀伊半島の東と西で、かくも豊潤なやりとりがなされていたことに驚嘆せずにはいられません。
二人が相まみえることは一度もありませんでしたが、二人の絆はまさしく、熊楠の言う「男道」の最も純粋なかたちではなかったかと思わずにはいられません。

鬼塚哲郎

3月で大学を定年退職し、年金生活を送る無職の老人。
仕事がなくても生き甲斐を感じつつ生活できるのか、という問いにはっきりした答えはまだ見つかっていませんが、仕事中心の生活から離れられた歓びは少しずつ湧き上がってきているような気がします。
岩田と熊楠のやりとりの背景には、近代郵便制度がしっかり機能していたのだなぁ、と感じています。

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