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南界堂通信〈秋号|第28号〉

知られざる偉人伝

はじめて日本男色史を著した米国の学者さん
─ゲイリー・リュープ先生─

Gary P. Leupp
(ゲイリー・リュープ)

橋本 治(作家/1948-2019)

明治以前の日本の社会はどうやら世界でも稀にみる男色天国だったらしい──こんなイメージは井原西鶴の『好色一代男』や十返舎一九の『東海道中久栗毛』を読めば感じることだけれど、歴史学の立場から古代〜中世〜近世の男色の通史を書いたのは、なんと米国の学者さんだった…

日本人で男色の歴史に取り組んだ人は実はたくさんいて、とりわけ三重県鳥羽の人、岩田準一さん(明治33年〜昭和20年)という在野の研究者が取り組んだ『本朝男色考』は本格的な通史として構想され、雑誌に連載が始まるが、中世室町時代で筆が止まる。その後、彼の志を継ぐ人は誰もいなかった…のだけれど、岩田さんが亡くなってちょうど50年後、米国の大学教授が『男色の日本史』を発表。2014年に翻訳が出て、ようやく日本でも男色の通史が読めるようになった。

曽我蕭白が描いた、後醍醐天皇が倒幕に失敗し笠置山に逃れた時の情景
曽我蕭白が描いた、後醍醐天皇が倒幕に失敗し笠置山に逃れた時の情景

その教授はゲイリー・リュープさん。専門は江戸時代の資本主義で、妻も子もあるノンケのおっちゃん。江戸期の資本主義に関係する文書を読み漁るうち、雇用関係にある男性同士の性愛があまりに頻繁に描かれていることに驚き、独立した研究分野として取り組むに至る。ところが、米国の大学にもホモフォビュア(ホモ嫌いの感情)はしっかりあるらしく、彼が「日本の男色の通史を書いているんだ」と同僚に言ったところ、「あなたには妻も子供もあるのに…」と絶句されたり、「キャリアに傷がつくからおやめなさい」と真顔でいわれたりしたらしい。

リューブさんによると、男色が描かれている最古の文書は985年のもの。その後、平安時代の天皇や貴族の日記に登場しはじめるが、男色を特別なこととする見方はなく、世代差、身分差のある忠義的な関係に性愛が含まれるという文化があった。鎌倉時代になると強烈な後醍醐天皇が登場。彼には若い貴族の愛人のいたことが記録に残っていて、江戸時代の画家曽我蕭白が、後醍醐が討伐に失敗し笠置山に逃れた時の情景を描いているのだが、後醍醐の右手前に立っている凛々しい若者がその彼か、などと勝手に妄想しているのはリュープさんではなく拙文の筆者でございます(汗)。

宮廷の次に男色の温床となったのは仏教寺院。ここでも基本となるのは僧侶と少年の師弟関係が性愛を含むという枠組みで、宮廷と同じパターンですね。中国の仏教寺院では男色がタブー視されていくのに対し、日本では真逆の方向に進み、「日本に男色を伝えたのは弘法大師だ」という伝説まで生み出されることになる。こうして宮廷、仏教寺院で組織文化となった男色は当然ながら武家社会にも広がっていく。女のいない戦場で武士が禁欲に励んでいたかと思うと、決してそんなことはなく、我々が知っている戦国武将の多くは自分より若い武士やお小姓と同衾していたわけだ。ここでも男色が特別視されることはなく、三時かの結束と忠誠心が性愛を触発していったと考えられる。

武家社会においても組織文化となった男色は、江戸時代にも受け継がれていく。リュープさんによれば15人の徳川将軍のうち男色の記録が残っているのが7人。しかし江戸期の大きな特徴は男色の性産業化だ。江戸の八丁堀、麹町、日本橋、湯島天神等々、京都の祇園、宮川町、大坂の道頓堀、坂町。その他名古屋、仙台、広島等にも男色茶屋、陰間茶屋が軒を連ねていた。そこではたらくワーカーの多くは両性具有的な風情の若い男たちであり、歌舞伎役者の多くもワーカーを兼ねていた。

アナルセックスの際、挿入するのは必ず年長者、というのが当時のお約束だった。身分制社会の枠組みが男同士の性愛に影を落としていたとすれば、それはまさにこの点であるとリュープさんは強調する。中世から近世にかけて、若い男の多くは階層を問わず少年期に壮年のパトロンとねんごろになり、ウケを経験。壮年になると今度はタチとなって少年と交わる。しかしその関係は性愛を軸に展開したというより、忠義や保護・被保護の絆によって結ばれた二人の関係に性愛が含まれていたというべきだろう。

性愛を拒まない忠義の絆…なんてロマンティックな響きだこと。でも当時の男たちはどう感じていたのだろう。一方で、江戸期には梅毒が大流行していたことを示すデータもある。コンドームのない時代、これだけたくさんの男たちがアナルセックスしていたら、無理もない?!

鬼塚哲郎

あと数年で定年を迎える大学教員。自覚はないが根っからのパリピとよく言われます。
リュープさんの本を読んで思うのは、ぼくらが知っている江戸の歌舞伎や美術や文学は、明治以降に定着したホモフォビュアの影響によって、男色的なものがすっかり拭い去られたかたちでぼくらの前に提示されていたのだなぁ、ってこと。『東海道中膝栗毛』の弥次さんと喜多さんが恋人同士だったこと、誰も教えてくれなかったものね…

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