男朋友
インスタ映えの真逆を行く
昭和喫茶の出戻り店主
マッキーさんに突撃インタビュー!
とある平日の午後のニューMASA。
L字型カウンター越しにマッキーさんとお客さん二人が世間話してる様子。
「あ、カレー、おいしい!」「ここなかったら、わざわざ中崎町に来ることないワ~」
「入ったらめっちゃカレーの匂いしてたから、思わず『カレー屋さんですか?』言いそうになったワ~」。
そのお客のお一人から差し入れをいただき、取材に訪れた我々もご相伴に。
なんとまあ、コミュニティ感満載の、和やかな雰囲気なんだろう…
MASH大阪(以下M):このお店との出会いを聴かせてください。
マッキー:店自体は先代の店主が1982年に始めたんですけど、私が来始めたのは2005年。すぐ近くに住んでて、週3回くらい、300円のモーニング食べに通ってました(笑)。5、6年経って、その先代のママが「ぼちぼちやめようか思てるねん」「えー、それショックやワ」「よかったらやらへん? 料理学校に行ってるんやし、やれるやん!」
M:料理学校に通っていたんですか?
マッキー:そうなんです。当時胃腸炎を患ってて、20キロも痩せたんです。ところが、茶屋町ロフトの前に当時あった玄米食堂で玄米食べたら調子がよくなった。それで友達に玄米食系の料理教室を教えてもらって通ってたんです。
M:で、先代ママの提案には何と?
マッキー:2つ返事で引き受けました(笑)。実は私、姫路の出身で、香川県の大学で英米文学を専攻(笑)、大阪のレコード会社に就職し、舞台照明の仕事をするうちに、新地の高級クラブでニューハーフ・ショウの演出を手掛けるようになった。これが本業になったけれど、夜の仕事なので、「お昼の喫茶店だったらやれるやん!」となったわけ。
M:そうすると、二足のわらじ状態?
マッキー:そう。ところが、はじめのうち、本業は向こう(新地)って意識があったのか、こっちのお店をよく休みにしてたら、文句言われるんです。申し訳ないやらありがたいやらで、結局あっちの仕事をやめてこっちの店に専念することにしたんです。
M:その時期のお店の方針は?
マッキー:自分の知ってる、キラキラした昭和喫茶をやりたかった。戦前の昭和風にしたり、80年代バブル期風にしたりもしましたね。でも平成が終わり、昭和がさらに遠くなると、昭和喫茶の位置づけがよく分からなくなった。法律が変わり店内で煙草が吸えなくなって売り上げが3分の1に落ち込んだこともあって「もともと譲り店だったし、10年近くやれたし、そろそろ次世代に譲り渡そう」。
M:そうして、ホントに別の方に譲った?
マッキー:はい、譲り店の伝統は守ったわけ(笑)。そして旅に出た。沖縄の友達の店でボランティアで働かせてもらったり。それから職探しして、会社に就職。でもねえ、一度自営業を経験すると、サラリーマンは辛いのよ。それにお店を譲った方が「そろそろやめたい」って言ってきたから…
M:あっさり返り咲いた!?
マッキー:ええ、出戻りました(笑)。2020年4月のことです。でもね、前やってたときの経験を活かして、店のコンセプトを洗い直したんです。まず、営業形態を変えました。平日と土日で違ったりするので、詳しいことはインスタグラムを見てほしいのですが、お昼の時間はカレー屋さん、昼過ぎから夕方までは昭和喫茶、夜は別の人がやるバー。
それから、「昭和喫茶」の「昭和」は、メディアが取り上げ、中崎町のトレンドでもある「オシャレな昭和」ではなく、「ワタシがこだわる、さりげない昭和」。どこが「さりげない」のかは、来てのお楽しみにしときます。そしてベースになってる基本精神は「初代のママさん(すでに故人)に説明できないことは絶対しない!」。これです。
M:そこに「譲り店」の真髄が息づいているわけですね。客層は?
マッキー:もともと中崎町は堂山が近いこともあってLGBTの方たちがたくさん住んでた。それに堂山から信号を渡ってすぐの立地ということもあって、結構来られます。ただ、中崎町がトレンドになってからは少し減りましたね。ホントはもっと来てほしいんです、誰もが集える場ですから。
M:興味深いお話、どうもありがとうございました。